伝えたいメッセージ。
心の中にしまっておきたいメッセージ。
そして知らない間に受け取っているメッセージ。
「手紙を書いた。君ならきっとわかってくれると思ったから。」
わたしたちはたいてい言葉を使って何かを伝え合います。
言葉はある程度必須だけど、でもそれが唯一の方法ではない事を皆が知っていると思います。
家族や仲のいい友達とは雰囲気や空気だけでもわかりあえたりしますよね。
ひとつの笑顔やハグが言葉よりも何かを語ることもあります。
言葉がすべてではない事、わたしはずっとそれを知っているつもりでした。
でも本当の意味でそれに気付いたのは、たぶん旅をし始めてからだと思います。
異文化に触れる事は、時にとても大きな刺激です。
わたしは話すのが上手ではないし、小さな言葉の壁をいつも感じています。
ひとつひとつの単語を丁寧に選んで、ひとに伝えるのは楽しいけれど大変だったりします。
単語ひとつにも、そのひと特有のイメージや概念が隠れていて、かたちがなく繊細で。
また逆に、わたしはひととひとの間の沈黙も素敵なものだと思います。
無音の中では、もっと上手に真っ直ぐに表現できたり。
何にも包まれていない、本当の姿を垣間見れたり。
初めてモロッコのマラケシュに行った時、ある女の子に出会いました。
わたしは公園でひとりお昼ご飯を食べていました。
その子はわたしに近づいて来て、にこっと笑いかけてくれました。
丸くしっとりとした小さな腕。わたしも笑顔を返しました。
そしてお父さんが女の子を探しに来ました。
彼はわたしを家に招待してくれ、ひびの入った小さなコップに入った生温いコーラをくれました。あの時の嬉しさは忘れられません。
フランス語もアラビア語も喋れないわたしと、英語がわからないお父さん。
僅かに交わした言葉の中で、女の子のお母さんが亡くなった事を知りました。
時々女の子は空に向かって「ママ」と呟いていました。
彼女の肌は柔らかく、暖かく、お父さんといる時の幸せそうな笑顔は形容し難く美しいものでした。
一年後、わたしは再度マラケシュを訪れましたが、その親子には会えませんでした。
たくさんの言葉もなく、当然抱き合ったりもしませんでしたが、お父さんの日に焼けてごつごつした手と彼女の時に物悲しげな笑顔はわたしにたくさんの事を語ってくれました。
誰かや何かのある一面を除き見る事は、痛みを伴う事でもあったりします。
その痛みは自分のエゴなのかもしれません。
わたしたちは見たり、感じたりする事ができます。
しかし同時に、わたしたちは見て見ぬふりをしたり、大切な事に気付けなかったり、目に見えるものに拘ったりしてしまいがちです。
そして時々わたしは自分を恥じます。
夜空に浮かぶ無数の星の光。ほっとさせられます。
わたしがただのちっぽけな存在だという事を確認させてくれるからです。
だからわたしはまた「それ」を探し続けます。
写真、
左:ベルリン
右:オウリカ渓谷(モロッコ)
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