Monday, February 27, 2012

げいじゅつ。




ベルリンのホステルで働いているわたしですが、毎日、他人の部屋を覗き見るのはちょっとした楽しみです。
同じ部屋でも誰が使うかによって違った表情を見せてくれます。
ある意味では、部屋のひとつひとつがアトリエのようです。

わたしは昔からいまいち「アート」が好きではありません。
でも、そんなわたしも気が向けば、時々美術館などに行ったりします。
美術館やアートギャラリーの雰囲気は静謐でどことなく非日常を思わせる、というのがわたしの印象です。
そしてその空間がわたしをニュートラルに、柔軟にしてくれる気がします。
それともただ、「美術館」というイメージに惑わされているのかもしれません。
でもそもそも芸術って何でしょう。
これはわたしの永遠のテーマになるかと思われます。


一番最近に足を運んだ展示で、彼の作品に温度、そして刹那の闇をみました。



ジョシュア・ベルという音楽家の協力で数年前、芸術に対してのある実験が行われました。
記事はこちらです。(英文)


日本ではあまり見かけないかもしれませんが、外国ではたくさんの人が路上でパフォーマンスをしていたり、時には電車の中でもレストラン内でも飛び入りで行われることがあります。
それに対して、拍手を送るひと、笑顔を浮かべるひと、冷たい視線を向けるひとなど様々です。
誰かのパフォーマンスを目の前にする時、少し複雑な気持ちになります。
自分に対しても、その演奏者に対しても申し訳ないと感じることがあります。
まるでその演奏者と街のひとは別世界に存在しているかのような、別の時間枠に生きているような錯覚に陥るからです。

ひとりひとりの鼓動が微妙に異なるリズムを持つように、人々の考え方も感じ方も違うのが当然の事だとは思いますが、その違いを必要以上に怖がっていたり、必要以上に構えて受け取ってしまうひとがとても多い気がします。
そして、そういう場面を目の当たりにしたとき、わたしは自分自身にももっと視野を広げようと言い聞かせるわけですが。

前に小さな写真展に参加させてもらったときにこんな言葉たちをもらった事があります。
わたしは写真を展示して、自分の書いた文章を引用したフォトブックを作りました。
「わたしもその目を通してみてみたい」
「こんなふうにいつも考えてて、大変なんじゃないの」
「すごく考えさせられた」
わたしはどこまで行ってもわたしなので、皆さんの真意は測りかねますが色々なひとの感想を聞いているうちに、写真を撮ったり文を書いたりするのが怖くなりました。
わたしの作ったものの影響でひとの中に生まれた何かに責任が持てないと思ったからです。
しかし、だんだんとそんな恐怖感も消え、わたしはまた写真を撮り始めました。
自分らしくいることの怖さも痛みも、時には楽しめる事が改めてわかったからです。

ついこの間、友達のひとりがこう言いました。
「今日の素晴らしい天気を堪能しよう。これがどれくらい続くか誰にもわからないから。」
彼はこれはただ単に天気の話をしただけだと言いましたが、わたしはこの言葉を人生に置き換えて考えました。
美術館に行かなくても、有名な美術家の作品に触れなくても、日常にはたくさんの価値あるものが存在しています。
存在している限り、ひとりひとりが表現者だと思います。

その理論でいくと、汚れたお皿も埃だらけの棚も、散らかった部屋も食べこぼしも、汚い浴室もシワシワのシャツも、枯れかけた観葉植物も道端に散乱したゴミも全部が誰かのアート作品なのかもしれません。
なんて素晴らしいこじつけでしょう(笑)
ということは… わたしの昔のルームメイトたちも、立派な芸術家です。
彼女たちは数々のかけがえのない作品をわたしに見せてくれました。

でも…まだひとつ、いつも疑問に思う事があります。
何故、いつも外国の皆さんは掃除用具や洗剤を必要以上に持っているのにも関わらず、掃除をしないのか。

まあ、世の中には解けない謎があるのは百も承知ですが。




写真:靴棚アート(ベルリン、自宅にて)
英語バージョン"Artism"の写真:かびアート





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